矢彦神社公式オフィシャルサイト

 

 

社伝によると、矢彦神社は1400年ほど前に創建されたとされる信濃国二之宮であり、上伊那54か村の総鎮守といわれていました。
祭神は大己貴命、事代主命をはじめとする9柱です。中でも明治宮は明治天皇の在位中に祀られた「生祀明治宮(せいしめいじのみや)」で、全国的にみてもまれです。
また、隣接する小野神社は塩尻市北小野のお宮であり、かつて豊臣の裁許によって1郷であった村が2つに分けられた名残でもあります。このため、同じ境内に2つの神社が祀られる、県内でも他に見られない場所となりました。
現在でも矢彦神社は、塩尻市北小野地区の中にある辰野町の飛び地として、辰野町小野区の氏子の信仰を集めています。

祭 神
正 殿 大己貴命(おおなむちのみこと)
     事代主命(ことしろぬしのみこと)
副 殿 建御名方命(たけみなかたのみこと)
     八坂刀賣命(やさかとめのみこと)
南 殿 天香語山命(あまのかごやまのみこと)
     熟穂屋姫命(うましほやひめのみこと)
北 殿 神倭磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)
     誉田別天皇(ほむだわけのすめらみこと)
明治宮 明治天皇


矢彦神社について

 

矢彦神社は、大己貴命が、御子である事代主命・建御名方命を従えて国めぐりをしつつ、国造りをしていた時、しばらくの御在所を小野の里の彌比古澤(やひこざわ)の須賀の地に定められたのが始まりといわれています。
古くから天皇からの崇敬が厚く、欽明天皇の時代に、大己貴命と事代主命を正殿に、建御名方命と八坂刀賣命を副殿にお祀りし、両殿を須賀の宮と称し、さらに、天香語山命と、塾穂屋姫命を南殿にお祀りし、矢彦神社としてのかたちが整ったといわれています。そして、例祭日を毎年八朔(はっさく-八月朔日)と定め、これを田の実(たのめ)祭と称し、現在まで続けられています。
延暦22年(803)に、征夷大将軍坂上田村麿が戦勝祈願を行った際には剣と弓を納め、別当神光寺(じんこうじ)を開基し、神社境内に本地堂を建立したと伝わります。
天文年間(1532~1554)に武田晴信(信玄)は、神領を旧に復し、式年祭には諸役を免じ、永禄9年(1566)には商人関を設け、商人や駄馬に課税して、それを式年祭の費用にあてることを許す朱印状をよせています。
慶安2年(1649)に、徳川家光より付属山林諸役免除の朱印状が奉納され、以後朱印状は将軍宣下ごとに書き換えられ、15代将軍慶喜まで続けられました。
明治24年(1891)宮内省御料局により、明治初年より一時中止されていた木曽山林からの式年新宮造営材下賜が復活しました。これにともない、明治27年(1894)に明治遥拝殿を創建しました。なお、明治天皇の生祠は、わが国でも初めての例とされています。それ以後、造営材の下賜は昭和7年(1932)まで続き「天賜材式年造営神社」と言われるようになりました。
また、昭和11年(1936)には、巣山沢御料林(31,822㎡)を御造営材供給備林として下賜されています。